静岡高校の先輩・川面忠男さん(日本経済新聞社友)が、恩田の解説をもとに、万太郎句の魅力を読み解いてくださいました。6回もの深掘りの味は、静岡おでんのようにしみます!
photo by 侑布子
読書ノート160 恩田侑布子編『久保田万太郎俳句集』(1)
秋うららの草の花のような俳句
俳人で文芸評論家の恩田侑布子さんが編著者となった新刊の『久保田万太郎俳句集』(岩波文庫)を読んだ。文庫本なのでポケットに入れて持ち歩ける。分厚いため本棚に積読となったままの『久保田万太郎全句集』(中央公論社)とは違う。万太郎が生涯に作った句は8千5百句ぐらいらしいが、恩田さんはそれらの中から902句を精選している。それで文庫本に何度も目を通し万太郎ワールドを味わい楽しむ日々になっていた。
売れ行きも好調のようだ。岩波文庫の編集者から恩田さんに次のような電話があったという。「岩波文庫トップクラスの売れ行きです。急ぎ増刷です。品切れ店が出そうで」。そのことは12月1日発行の静中静高関東同窓会の会報の「わたしと俳句」欄に「かおる秋蘭」と題した記事に書かれていた。執筆者は静岡高校91期生の恩田さん、ちなみに私は75期生だ。
記事で恩田さんは『久保田万太郎俳句集』の「編纂、解説を任されるとは夢にも思っていませんでした」と述べている。そして以下のようにも書いている。
- 個人的には作者(注:万太郎のこと)の苦難の人生に共感していました。現実に満ち足りていれば文学をする必要はありません。二十代で浅草田原町の生家が銀行の手に渡り、青、壮、初老期と着の身着のまま焼け出され、戦後は接収に遭う。生涯五度も家を失ったのです。妻の自殺、ひとり子の夭折と、どしゃぶりのなかで、窃かに情けのある日溜りの暮らしに憧れていました。三界火宅の人は、俳句をつぶやく時だけ安らいで、秋うららの草の花のような俳句を詠んだのでした。
万太郎の俳句が秋うららのようだ、というのは恩田さんならではの表現だろう。寄稿文の題の「かおる秋蘭」は秋の七草の藤袴のことだと明かしている。恩田さんは『久保田万太郎俳句集』で解説を書いているが、同じ寄稿文でこうも述べている。
- 今回の解説では「嘆かひ」の俳人や、浅草界隈の情緒という湿っぽいイメージを一新したいと思いました。その真価は「やつしの美」のやさしさにあると思ったからです。
万太郎を「嘆かひ」の俳人と言ったのは、友人の芥川龍之介だった。浅草情緒云々は小泉信三が万太郎の墓碑銘に「日本文学に永く浅草を伝えるもの」と記したことを指している。
図らずも同窓会報で『久保田万太郎俳句集』の解説のそのまた解説を読んだ感じだ。この際、同書の内容について頭の整理のためにも読書ノートとして記しておこう。
(2021・12・12)
photo by 侑布子
読書ノート160 恩田侑布子編『久保田万太郎俳句集』(2)
河童忌の句
俳人で文芸評論家の恩田侑布子さんが編著者となった岩波文庫の『久保田万太郎俳句集』は、万太郎の俳句、小唄他、散文と恩田さんの解説で構成されているが、俳句は「無双の902句を精選」と謳っている。その中で芥川龍之介の忌日である河童忌の句は漏らさないように選んだようだ。
俳句は「草の丈」、「流寓抄」、「流寓抄以後」と分けて載っている。まず「草の丈」の「浅草のころ」(明治四十二年-大正十二年)は〈新参の身にあかあかと灯りけり〉が第一句目だ(「あかあか」は「あか〈 」と記されている)。
『俳句の解釈と鑑賞事典』(尾形仂編)には掲句について以下の記述がある。
芥川龍之介は『道芝』(注:万太郎の句集)の序で、〈江戸時代の影の落ちた下町の人々を直写したものは久保田氏の他には少ないであらう〉といい、〈久保田氏の発句は余人の発句よりも抒情詩的である〉〈久保田氏の発句は東京の生んだ「嘆かひ」の発句であるかも知れない。〉と述べている。
万太郎は「嘆かひ」の俳人にとどまらないというのが恩田さんの解説だ。
「草の丈」の「日暮里のころ」(大正十二年十一月-昭和九年)には「昭和二年七月二十四日」と前書きし、〈芥川龍之介佛大暑かな〉という句がある。『久保田万太郎俳句集』の巻末の略年譜によると、芥川は旧制府立三中(現在の両国高校)で万太郎の2年後輩だった。「大正十二(一九二三)年 33歳 関東大震災で全焼し、日暮里渡辺町に転居。芥川龍之介と交際する」とも記されている。
また「草の丈」の「芝のころ」(その二)(昭和十七年三月―二十年十月)には「ひさびさにて河童忌に出席」と前置きし〈ひぐらしに十七年の月日かな〉という句がある。
さらに「流寓抄」には「七月二十四日、芥川龍之介についてのおもひでを放送」と前置きし、〈河童忌や河童のかづく秋の草〉という句がある。久保田万太郎は昭和元年に東京中央放送局あ(現・NHK)の 嘱託になっていた。河童忌は龍之介の忌日で夏の季語。「流寓抄」には他に〈河童忌のてつせん白く咲けるかな〉、「流寓抄以後」には〈元日の句の龍之介なつかしき〉という句も収められている。
万太郎には心のこもった追悼句が多いと言われるが、「流寓抄以後」には「十月十日、白水郎逝く」と前置きし、〈露くらく六十年の情誼絶ゆ〉という句がある。『久保田万太郎俳句集』の散文、「道芝」跋に次のような文言がある。「(前略)わたしは、同級の白水郎とともに、そのころ始終坂本公園の一心亭に開かれていた三田俳句会に出席した」。大場白水郎は府立三中、慶応義塾で一緒の友人、その交遊は60年続いていたのだ。
誰にも追悼句を詠む機会は少なくないが、水準に達する句を作るのはなかなか難しいと自戒せざるを得ない。
(2021・12・13)
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読書ノート160 恩田侑布子編『久保田万太郎俳句集』(3)
影あってこその形・つまりは余情
俳人で文芸評論家の恩田侑布子さんが編著者となった岩波文庫の『久保田万太郎俳句集』を読んで散文の章の「選後に」と題した文中にある言葉を記憶に留めたいと思った。それは「〝影〟あってこその〝形〟である」というもの。俳句をたしなむ者の一人として合点だ。
万太郎は以下のように述べている。
- 〝影〟あってこその〝形〟・・・便宜、これを、俳句の上に移して、〝影〟とは畢竟〝余情〟であるとわたくしはいいたいのである。そして〝余情〟なくして俳句は存在しない。(中略)表面にあらわれた十七文字は、じつは、とりあえずの手がかりだけのことで、その句の秘密は、たとえばその十七文字のかげにかくれた倍数の三十四文字、あるいは三倍数の五十一文字のひそかな働きに待つのである。
そして抒情とは必ずしも感情を露出することではないとも言っている。万太郎に追悼句が多いが、確かに哀しみの感情をストレートに露出した句は少ない。
〈年の暮形見に帯をもらひけり〉は秀句とされる。帯は形だが、形見という措辞で縁ある人が逝ったとわかり、余情を醸している。〈年の暮〉という季語で心のけじめがついたとも想像させる。
〈来る花も来る花も菊のみぞれつゝ〉という句は「昭和十年十一月十六日、妻死去」という前置きがある。『久保田万太郎俳句集』の恩田さんの解説によると、浅草の芸者梅香に恋したが、「妹をもらってほしい」と断られ、妹の京と親が同居の結婚をした。関東大震災で焼け出された後、日暮里で暮らしたが、「親子三人水入らずの新居時代。これが唯一の安息の数年でした」という。そして昭和十年十一月、妻京が満14歳の耕一を残して服毒自殺した。菊は仏前に供えるのに適した花だが、それが「みぞれつつ」という言葉に影の状況を想像させよう。
その耕一だが、「耕一應召」という前置きで〈親一人子一人蛍光りけり〉という句がある。子は生還するが、万太郎が67歳の昭和32年に先立ってしまった。
「流寓抄以後」に「一子の死をめぐりて(十句)」という前置きに続き〈燭ゆるゝときおもかげの寒さかな〉などの句が続く。その後に代表句の一つ、〈湯豆腐やいのちのはてのうすあかり〉が収められている。前置きの一子は吉原の名妓だった三隅一子、再会して一緒に暮らすが、ほぼ10年後の昭和37年に彼女にも先立たれる。〈わが胸にすむ人ひとり冬の梅〉は一子を詠んだ句であろうか。
久保田万太郎は文化勲章を受賞するなど社会的活躍は華々しいが、私生活では孤独を感じることが多かった。梅原龍三郎邸で会食中、食べ物を誤嚥したのが原因で亡くなったが、〈死んでゆくものうらやまし冬ごもり〉という句がある。一子が逝った半年後、追うようにして逝ったのだ。
(2021・12・15)
photo by 侑布子
読書ノート160 恩田侑布子編『久保田万太郎俳句集』(4)
水の変化としない
俳人で文芸評論家の恩田侑布子さんが編著者となった『久保田万太郎俳句集』(岩波文庫)は、解説編がいちだんと読み応えがある。万太郎の生い立ち、文人・俳人たちとの交流などを概説した後、「では、いよいよ作品とその特徴をみてみましょう。万太郎は水の俳人です」と述べる。いかにも恩田さんらしい口調だ。
以下の通り例に挙げた句は年齢順になっている。
秋風や水に落ちたる空の色 三十三歳
したゝかに水をうちたる夕ざくら 三十六歳
それぞれ鑑賞して次のように解説している。「水の変化はそのまま情(こころ)の千変万化です。水は、雨に、川に、雪に、ときには豆腐に身をやつします」。そして〈双六の賽に雪の気かよひけり〉を挙げた後、63歳の時の作である〈水にまだあをぞらのこるしぐれかな〉について「口遊むたびに水のこころが燻る一炷の香のような俳句です」と言う。さらに「水百態はピアニシモも、フォルテも奏でます」というのは恩田さんらしい比喩だ。
波あをきかたへと花は遁るべく 五十九歳
この句には「神秘的弱音です」、「この青春性を湛えた歌人的パトスは終生老いを知りませんでした」などと鑑賞を表現している。「青春性を湛えた歌人的パトス」とは、どういうことか。
恩田さんは「花と波のいちめんの精美の底に、定家の〈いかにして風のつらさを忘れなむ桜にあらぬさくらたづねて〉の懊悩がこもるようです」と述べたうえ、万太郎が中学の同人誌に発表した新古今調の歌を2首挙げている。その青春性を掲句から汲み取ったのだろう。パトスだが、広辞苑によると、「苦しみ・受難・また感情・激情などの意」とある。
掲句については「極小の定型に美しい青竹がしなう弾性は、悼句にさえ鮮烈なみずみずしさをほとばしらせます」と言い、続いて59歳時の作である〈夏じほの音たかく訃のいたりけり〉という6世尾上菊五郎の追悼句を挙げている。解説は以下の通りだ。
- 万太郎の俳句の魅力は、感情と季物の間に寸分の隙もない呼吸にあります。詠嘆を引き受けつつ客観視する、柳に風の強さ、しないがあります。短歌的抒情を俳句の平常心で止揚したこの独自のしないがあればこそ、千数百年の日本の詩歌の抒情という定型に注ぎこむことができたのでした。
この解説の見出しの「水の変化」だが、「へんげ」とルビを振っている。物が変わる「へんか」ではなく「形が変わって違うものが現れる」(広辞苑)という意味での「へんげ」だ。その変化を汲み取りたい。
(2021・12・17)
photo by 侑布子
読書ノート160 恩田侑布子編『久保田万太郎俳句集』(5)
万太郎俳句の特徴の続き
俳人で文芸評論家の恩田侑布子さんが編著者となった『久保田万太郎俳句集』(岩波文庫)の解説編は「水の変化としない」に続き「新しみへの挑戦」などとという見出しで万太郎の俳句の魅力を解き明かしている。
いづれのおほんときにや日永かな 六十一歳
掲句を挙げて恩田さんは「ふくよかなおかしみさえ添えて古語や古文を自在に駆使」と言う。源氏物語の「いづれの御時にか、女御、更衣あまたさぶらひけるなかに」という書き出しを指しているのは言うまでもない。
仰山に猫ゐやはるわ春灯 六十二歳
これは「仰山に」「ゐやはるわ」という京言葉が秀逸、としている。
忍、空巣、すり、掻ッぱらひ、花曇 六十五歳
「忍」は「のび」とルビが振ってある。掲句については「名詞を次々に句点でつなぐ手法の魁です」と言う。
また「つのだてない批評精神」という見出しで「万太郎は戦時下の昭和十九年にもしぶい反戦句を詠みました」と以下の句を挙げている。
かんざしの目方はかるや年の暮 五十五歳
うちてしやまむうちてしやまむ心凍つ 五十五歳
戦時内閣は敗色が濃くなったにもかかわらず寺の梵鐘からわずかな金属まで供出させ、精神力を強調した。恩田さんは万太郎の句について「まっとうな批評精神です」と述べている。
批評は詩にならないと私は思っていた。新聞社に30数年勤めたせいもあり、批評精神はいまだに消えない。それで世相を意識した句を詠みがちだが、理屈の句と言われてしまう。改めて万太郎の句に学びたいと思うが、凡手には無理だともわかっている。
「恋の名花」という小見出しで恩田さんは「何といっても万太郎は恋句の名手です」と述べて以下の句を挙げている。
さる方にさる人すめるおぼろかな 四十六歳
香水の香のそこはかとなき嘆き 六十三歳
解説は以下の通りだ。
- 「さる方」には、源氏物語のなかに招かれるよう。雲雨の情が薫ります。(中略)「香水の香」は、句跨りのリズムによってなまめかしい女身を幻出させます。百花繚乱の恋句のなかで、〈わが胸にすむ人ひとり冬の梅〉と双璧の縹渺たる名品はこれでしょう。
恋の句は、個人の感傷に陥りがちだが、万太郎は文学作品に仕上げている。これまた凡手にはできないことだ。
(2021・12・18)
photo by 侑布子
読書ノート160 恩田侑布子編『久保田万太郎俳句集』(6)
やつしの美
俳人で文芸評論家の恩田侑布子さんが編著者となった『久保田万太郎俳句集』(岩波文庫)の解説編は、万太郎の句の大きな特徴を「やつしの美」としている。これは恩田さんのオリジナルな見解であろう。
「やつし」の意味を改めて広辞苑で調べてみると「やつすこと」、それで「やつす」を見ると、「自分を目立たぬように姿を変える。見すぼらしく様子を変える」とある。恩田さんは、日本の文学の伝統が「見立て」を生んでゆくなどと縷々述べた後、まず以下の句を挙げている。
新参の身にあか〈 と灯りけり 三十三歳
「あか〈 」は「あかあか」だ。久保田万太郎は老舗「久保勘」の親方の子。その万太郎が「小僧に身をやつし思いやっています。やつしは技巧ではありません。うそもかくしもないところからにじみ出るものです」と言う。
ふりしきる雨はかなむや桜餅 三十三―三十七歳
吉原のある日つゆけき蜻蛉かな 三十五歳
言上すうき世の秋のくさ〈゛を 五十八歳
以上の句については「桜餅や蜻蛉がうら若い芸妓だったり、秋草が庶民だったり、やつしにはなり変わり合うぬくもりがあります」と解き明かしている。
竹馬やいろはにほへとちり〈゛に 三十六歳
この句については以下のように述べている。
- 冬虹のようなグラデーションが一句から立ちゆらぎます。あるときは竹馬に乗ってはしゃいでいた子どもらが、冬の日暮れに帰ってゆくところ。あるときは竹馬の友が浮かび、どうしているだろうと懐旧にさそわれます。作者の愛してやまない「たけくらべ」の美登利たちの下駄音まで聴こえそう。小学一年の「かきかた」教本には、いろはにほへとが散らばっていました。(中略)こんこんとイメージが湧くのは、やつしの美に貫かれているからです。「竹馬」にやつされたもろもろが、ゆらぐ虹を架けます。(後略)
さらに〈時計屋の時計春の夜どれがほんと〉などの句の他に、73歳の最晩年に作った〈湯豆腐やいのちのはてのうすあかり〉という句について以下の通り述べている。
- (前略)幽明の境にほほえみのようにゆれる湯豆腐こそ、作者のいのちのはてのやつしです。ふるえる湯豆腐に身をやつしているのは万太郎と一子の老境の恋、その衰亡のすがたです。(後略)
掲句は万太郎の代表句。それが老いらくの恋のいのちをやつしたものと解説されて目から鱗が落ちた思いだ。
(2021・12・19)